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2008-12

聖徳太子さん薨去の日 [2007.02.23 - 奈良ニュース]
 一歩遅れてしまいましたが、昨日2月22日は聖徳太子の命日だったそうです。

命日 太子道歩く (07.2.23 / YOMIURI ONLINE)

 聖徳太子の命日にあたる22日、斑鳩町の法隆寺から太子の御廟がある叡福寺(大阪府太子町)まで約20キロの太子道を歩く「太子道をたずねる集い」が開かれ、約150人が参加した。

 太子ゆかりの法隆寺が、太子をしのんで1997年から開催。太子の遺体を叡福寺の御廟まで運んだ磯長(しなが)ルート、太子が斑鳩宮から飛鳥の小墾田宮(おわりだのみや)に通ったルートの2つの太子道を毎年2、11月にたどっている。


 ふと『日本書紀』の原文で調べてみたところ、きちんとありました、聖徳太子が亡くなったという悲しみの記載が。

推古天皇二九年(六二一)二月癸巳《五》◆廿九年春二月己丑朔癸巳。

半夜厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。是時諸王諸臣及天下百姓悉長老如失愛兒而臨酢之味在口不嘗。

----(毎度お馴染み)勝手に現代語訳
推古天皇29年(621年)2月5日

夜、斑鳩宮にて聖徳太子が亡くなった。諸国の王や臣下、百姓たちまで皆悲しみ、酢の味が分からなくなるほどだった(感覚が麻痺したということか?)


 さて、太字で記した通り、『日本書紀』では聖徳太子の命日が「2月5日」と記されているのです。
 でも法隆寺で行事が行われるのは「2月22日」。

 天下の史書『日本書紀』を信じればいいのか、聖徳太子の本家(?)・法隆寺を信じればいいのか。
 どちらも信じたい要素満載ですが、現在の一般認識では「Winner!法隆寺!」のモヨウです。

 というのも、『日本書紀』以外の他の数史書では、2月22日に太子が亡くなったという表記が符合しているらしく、『日本書紀』の表記は誤りらしいという認識が強いとのこと。

 なるほど。『日本書紀』も数には勝てませんでした。


 ところで偶然発見して勝手に感激していたのですが。
 上記で抜粋したのは『日本書紀』の621年2月5日の項。
 この1つ前に表記されているのが、620年(日付不明)のことなのです。
 この内容が、「聖徳太子と蘇我馬子は『天皇記』と『国記』の編さんを行いましたよー」。
 数回前のエントリで偶然にもご紹介した、例の史書です。(参照-見つかるかも?古事記よりも古い歴史書 (07.02.15))

 こういうさりげない偶然で一気に楽しみが増すんですよね、勉強って。
 学生卒業してようやく気づき始めました。遅い。遅すぎる。

 私の中には、「『日本書紀』で『天皇記』『国記』の記載があった次の項は、聖徳太子が亡くなった項だー!」という非常に濃いインパクトが生まれました。
 聖徳太子さんがくださった「勉強ってのはこんな風にするんですヨ!」というテレパシーでしょうか。
 ありがとう聖徳太子さん。


 いつものことながら、エントリの締めが冒頭とかけ離れてしまいました。
 「2月22日は聖徳太子さんがお亡くなりになった日ですよ」というエントリでした。


関連リンク
 ・法隆寺 公式サイト
 ・第21回太子道をたずねる集い (法隆寺iセンター 製作)
  ――今年度は既に終了しましたが、集いの参加者を毎年一般募集しているようです。
   参加人員150名、歩行距離20km。……20!?すごい!

関連エントリ
 ・鑑真さん来日の日 (06.12.20)
  ――似た感じのエントリということでご紹介。
   12月20日は鑑真さん来日の日でした。
by Yue | 2007-02-23 | 奈良ニュース | trackback | comment(0) | top

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2007.08.01 Wed

SUBJECT:
叡福寺叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町 (大阪府)|太子町にある寺院であり、聖徳太子の墓所があることで知られている。山号は磯長(しなが)山、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は聖武天皇ともいい、聖徳太子または推古天皇ともいう。宗派は真言宗系の
DATE: 14:37 大阪探索どっとこむ 
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