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2007-06

 昨夜からわりかし大きく報道されている、平城京における「十条大路」が確認されたという話題。「くじょう」は聞き慣れているけれど「じゅうじょう」はなかなか耳にしないので、何やら神聖な感じがあります。あ、「畳じゅうじょう」とは言うか。

定説覆す、平城京「九条大路」の南に「十条大路」の遺構 (YOMIURI ONLINE / 07.6.13)

平城京十条大路発見ニュースサムネイル(YOMIURI ONLINE)
(※ユエ注-記事内写真は、手前の溝から奥の溝までが十条大路の「道幅」です。つまり十条大路は写真を左右に走っていたことになります。)

 奈良県大和郡山市の下三橋(しもみつはし)遺跡で、奈良時代の都、平城京(710〜784年)の最南端にあたる「十条大路」の遺構が初めて確認され、同市教委と元興寺文化財研究所が13日、発表した。

 平城京は南北九条という従来の定説を覆し、その前の藤原京(694〜710年、同県橿原市)と同様、十条で計画されたことが明らかになった。

 今回「十条大路」の遺構が発見された下三橋(しもみつはし)遺跡は、近鉄・JR郡山駅のほぼ真東に位置しています。
 今回の発見で平城京の南限がこの「十条大路」に比定されることになりそうですが、対する北限の「一条(北)大路」は近鉄大和西大寺駅の北側。
 北限の大和西大寺駅から南限の郡山駅までは、南北にほぼ垂直に走っている近鉄橿原線で4駅、各駅停車で約8分。奈良時代の人はこの距離を何時間かけて歩いてらっしゃったのでしょうか。


 さて。これまで、平城京は「九条大路」が南限だとされてきていました。
 その九条大路から南へ530m下ったところで、今回の十条大路が発見されたというわけなのですが。
 この十条大路の存在は、実は数年前から指摘されていたようです。
 と、見事なほどに他人事っぷりな言い方ですが、このブログでも2005年8月のエントリで紹介しておりました。(参照-平城京はもっと大きかった?(05.8.26))
 手持ちの『ビジュアルワイド 図説日本史(Amazon)』(愛してます)の2006年度版にも、平城京解説の箇所に「十条大路があった可能性が指摘されている」旨の表記があります。ということで、2005年の発見以降は十条大路の存在がほぼ確実視されていたのでしょう。

 九条だとか十条だとか言っても分かり辛いですので、視覚で分かるよう地図を作ってみました。方向音痴の私が作ったものですので(関係ないか)詳細に見ると若干のずれ等ありますが、参考程度にどうぞ。
 以下の画像クリックで同じウィンドウに拡大表示されます。多少大きい画像ですので(600*550, 436KB)、お気をつけください。(地図データは「ちず窓β」を使用)

 

 南にある小さなオレンジ色のポイントが、今回の遺構発見現場である下三橋遺跡。その下を通るように東西に走っている赤いラインが、今回発見された十条大路の推定。十条大路北側に広がる薄いピンク(か?)の範囲が、今回の発見によって広がった平城京地域です。
 右京側には十条大路がないのかという質問の答えは存じ上げません。あしからず。でも気になりますね。


 この十条大路、「なんと大きな平城京」の年(710年)から20年ほど経った頃に廃絶されたようです。730年辺りには平城京は規模が縮小されて南北九条の都となっており(上記地図の青色の範囲)、十条大路付近は大した整備もされていなかった跡が窺えるとのこと。
 なぜそうなったのか、詳しいことはその決定を下した人に聞いてみるしかありませんが(朝日紙面では「唐の長安城を真似て藤原不比等が決めたのだろう」という一説が)、平城京から遷都された都、平安時代の長岡京や平安京では、既に「九条」が一般的になっていたようです。
 対する平城京遷都前の飛鳥時代の都、藤原京(奈良県明日香村)は、「十条」。

 ということで、平城京は、都の南北が「十条」から「九条」に変革する真っ只中にあった都だったのかもしれません。


 ちなみに、今回の下三橋遺跡での十条大路の遺構の発見を受けて、更にその南側も調査したようですが、道路遺構は見当たらなかったとのこと。
 ……さすがに十一条大路はなかったようです。
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