奈良ならでは [http://naranara.blog10.fc2.com/]

気楽に読んで奈良に興味を持っていただけるブログ目指して奮闘中

2007-06

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by Yue | 2008-08-20 | | top
 26日の作業をもって、とりあえず一段落した高松塚古墳の石室解体。
 今現地に残っているのは4枚の床石だけで、何とも不思議な感じがします。

高松塚、床石だけの石室写真公開…厚さ50cmの岩4枚 (07.6.27 / YOMIURI ONLINE)

高松塚古墳写真(YOMIURI ONLINE)ニュースサムネイル

 奈良県明日香村、高松塚古墳(8世紀初め)の石室解体で、文化庁は27日、国宝の極彩色壁画が描かれた側壁や天井石などがすべて取り外され、床石だけになった石室の写真を公開した。
 (略)
 床石は厚さ約50センチの凝灰岩4枚を南北に並べ、長さ3・2メートル、幅1・6メートル。側壁と組み合わせるため、外周は中央部より約3センチ低くなっている。

 “高松塚=壁画”のイメージしか持っていなかった私は、床石を見て初めて「あーこの古墳には床があったのかー!」と妙な感心をしてしまいました。
 上の写真を何度見ても、高松塚であるのに高松塚でない感じ。床石4枚だけでは寂しそうにも見えます。寒そう。夏だけども。
 この4兄弟は、7月下旬に取り外し作業が行われ、その後他の石材たちと合流するとのこと。
 あともう少し頑張っていてください、床石4兄弟!


 ところで上の写真を見てふと何かを思い浮かべてすぐさま忘れたので、それを思い出すまでうんうん唸ってたのですが。無事思い出しました。無事?
 高松塚の床石の雰囲気が、同・明日香村にある石造物「鬼の俎(まないた)」に似てるのですよねー。

鬼の俎

 その名の通り、鬼がこの石をまな板にして人間をおいしく調理したという曰くつきの石です。見ての通り安定感は抜群で、きっとおいしい料理ができたのでしょう。こうなれば包丁がどんな感じだったのかも気になりますね。
 ……ではなく、この「鬼の俎」も、高松塚の床石4兄弟と同じく、古墳の床石らしいと推測されています。
 写真を見る限りでは、高松塚の方が洗練された感じでしょうか。
 いやいやでも俎の特異な形も気になります。
 高松塚古墳は8世紀初め、鬼の俎は7世紀末。
 時代も似ていることですし、高松塚古墳石室(床石限定)の雰囲気を感じたい方は、「鬼の俎」を見に行くのもいいかもしれません。


 高松塚古墳エントリがいつの間にか鬼の俎エントリに……。


関連エントリ
 ・高松塚古墳解体のまとめ (最終更新: 07.6.29)
 先日、石神遺跡でノコギリが見つかったとの発表がありました。

7世紀の大型ノコギリ、木の柄も残った…明日香村で出土

石神遺跡のノコギリ発見記事(YOMIURI ONLINE)サムネイル

 奈良県明日香村の石神遺跡(飛鳥時代)で、7世紀後半とみられるノコギリ(長さ44・5センチ)が、奈良文化財研究所の調査で見つかった。都の近くで、柄も残ったほぼ完全な状態での出土は珍しいという。
 柄の雰囲気が火縄銃に似てる気がして、「飛鳥時代の銃!?」と一瞬驚いたのですが、さすがにそんなミラクルは起きませんでした。
 ノコギリの直径は44.5cm。柄と刃の長さが1:1ぐらいだろうと写真から勝手に推測したとして、刃の長さは22cmちょっとぐらいでしょうか。
 A4用紙の横幅が20cmちょっとなので、それプラス2cmほどだと考えていただければ想像しやすいかもしれないです。

 個人的に驚いたのは、柄の作りこみ具合。くびれができているのも見事ですが、木材の角を削って丸めているのにも感心しました。握りやすさを追求した至極の逸品です。深夜の通販みたいな言い方だ。


 ところで、このノコギリが出土した「石神遺跡」。
 少し前に話題になった、山田道発見の場所でもあります。(参考-更に時代をさかのぼる「山田道」が見つかる (07.06.06))
 掘っても掘っても色んなものを見せてくれる石神遺跡が今、暑い!違う、熱い!でもやっぱり暑い!
 (奈良検定テキストには石神遺跡の項がないですね。テキスト作成時期が1年遅れて今頃になってたら、きっと石神遺跡の項も追加されたのではないかなーと勝手に思っていたり。次回の試験ではもしかすると「テキスト外」からの問題として出題されるかも?)
四都を比較してみた [2007.06.17 - 勝手に奈良学]
 先日、平城京の南端は十条大路だったという発表がありました。(参照-平城京、南北九条から十条へレベルアップ (07.06.14))
 ふと「そういえば他の都の大きさはどんなもんだったんだろう」と思い立ちまして、調べてみました。
 平城京とその前後の4つの都、藤原京、平城京、長岡京、平安京を比較。なかなか楽しかったです。

 簡単図を作ったので、そちらをご覧いただけると多少は分かりやすいかと思います。
 画像クリックで同じウィンドウに大き目の画像が表示されます(640*512,88KB)。

四都比較図、その1(thumb)

 見辛いという場合は更に大きな画像もありますので(800*640, 246KB)、こちらをどうぞ。

 白い点線が走っているのは、大きさ比較のためです。模様ではありません。

 以下、箇条書きで気づいた点を羅列していくと……
  • 面積は「藤原京>平安京>平城京・長岡京」の順
  • 藤原京・平城京は南北「十条」、長岡京、平安京は南北「九条」
  • 藤原京は数年前までは「2.1×3.1(km), 6.5平方キロ」とされていたが、最近の調査で一気に広まった
  • 平城京と長岡京はサイズが同じ(現在発見されている限りは)
    • しかし平城京は南北「十条」であるのに対し、長岡京は南北「九条」
  • そうかー平安京は明治維新が起こるまでは都だったのかー
  • 4つとも東西南北の距離の数字が似たり寄ったりだから、4つの図を重ねても、かぶりまくって意味が分からなくなるんだよねぇ……

 最後の2つはまぁ私の勝手な呟きです。
 特に最後の1つはもう……。最初図を作った時、作り終えてから思わず呆然としましたもん。平安京以外の3つの都は特に、数字が似通っているのです(と言うかむしろ、平安京が異質?)。だから重ね合わせた図を作っても分かり辛いのなんの。
 でもせっかくなんで、その図も載せておきます。平城京と長岡京の双子っぷりには驚かされるばかりです。ははは。(クリックで拡大-400*280, 31.3KB)
四都比較図、その1(thumb)

by Yue | 2007-06-17 | 勝手に奈良学 | trackback | comment(5) | top
 去年11月に西大寺の食堂(じきどう)跡から「伊賀栗木簡(勝手に命名)」が出土したと大騒ぎになりました。いや、大騒ぎしました。私が。お恥ずかしい。(参照-西大寺の食堂跡から木簡が見つかる (06.11.21))
 出土した木簡は「伊賀栗木簡」含む全60点あまりで、その中に「正暦二年」と記されていたものがあったことから、あぁじゃあこれらの木簡は991(正暦2)年前後に書かれた"10世紀末"のものだ、となっていたのですが。

 発見から半年以上経った先日、この「正暦二年」という年号は実は記載ミスらしいという発表があり、木簡の年齢は一気に200年近く遡って"8世紀末"のものに訂正されました。
 正確な年号は、「正暦」ではなく、「延暦」。

奈良・西大寺食堂院跡 木簡「8世紀末」に修正…奈文研(Sankei Web / 07.6.14)

 奈良文化財研究所(奈良市)は、昨年11月に発表した同市の西大寺食堂(じきどう)院跡で見つかった木簡の年代を10世紀末から、8世紀末に修正した。木簡には「正暦二年」(991年)と書いていたが、その後の調査で「延暦」と読める木簡が新たに5点確認されたためで、同研究所は「状況から正暦は延暦を意図して書いたと解釈するのが穏当」とし、書き間違えたとの見方を示している。

 上にも書いたとおり、もともとの発表は「正暦二年」、991年。この頃は平安時代中期、一条天皇(第66代)、藤原氏全盛期です。
 ここから200年以上さかのぼった「延暦二年」は、783年。鳴くよウグイス年(794年)の手前ですから、奈良時代末期に当たるのでしょう。この頃の天皇は在位3年目の桓武。翌年の784年には長岡京への遷都が行われています。


 当初、木簡の年代を「正暦二年(10世紀末)」としたのは木簡の記載ミスも影響していますが、実はこれ以外にもその年号が妥当だと思わせる要素はあったようです。
 と言うのも、この木簡が出土したのは西大寺食堂跡の井戸跡。その井戸の"周辺"から、10世紀("10世紀末"ではない)の土器が出土しているのです。このことから、木簡の「正暦二年」記載も真実味を増していたのです。

 ところがどっこい、その後の調査で井戸"跡"から8世紀の土器が見つかり、その上「延暦」(8世紀末)との記載がある木簡もどんどん出土。
 井戸跡から出土するのは基本的に8世紀末のものだという雰囲気が強まり、「これじゃあ1枚だけ見つかった"正暦"と書かれてる木簡が不自然すぎる。もしかして他の木簡と同じような"延暦"と書くところを間違って書いたんじゃないの?」となり、今回の発表に至ったモヨウです。


 しっかし楽しいですね。当時の人は何の気無しに起こしたかもしれない行動が、今の時代では学説を左右するまでになる。
 私も気を引き締めて日常を過ごさないと、1000年とか2000年経った頃に、私のアホみたいな行動の残骸(?)が発見されて、「これが当時の人の生活だった!」とか言って全体化されるかもしれないんですね。
 こりゃぁ平成時代を生きる人間一人ひとりが重大責任です。


関連エントリ
 ・西大寺の食堂跡から木簡が見つかる (06.11.21)
 昨夜からわりかし大きく報道されている、平城京における「十条大路」が確認されたという話題。「くじょう」は聞き慣れているけれど「じゅうじょう」はなかなか耳にしないので、何やら神聖な感じがあります。あ、「畳じゅうじょう」とは言うか。

定説覆す、平城京「九条大路」の南に「十条大路」の遺構 (YOMIURI ONLINE / 07.6.13)

平城京十条大路発見ニュースサムネイル(YOMIURI ONLINE)
(※ユエ注-記事内写真は、手前の溝から奥の溝までが十条大路の「道幅」です。つまり十条大路は写真を左右に走っていたことになります。)

 奈良県大和郡山市の下三橋(しもみつはし)遺跡で、奈良時代の都、平城京(710〜784年)の最南端にあたる「十条大路」の遺構が初めて確認され、同市教委と元興寺文化財研究所が13日、発表した。

 平城京は南北九条という従来の定説を覆し、その前の藤原京(694〜710年、同県橿原市)と同様、十条で計画されたことが明らかになった。

 今回「十条大路」の遺構が発見された下三橋(しもみつはし)遺跡は、近鉄・JR郡山駅のほぼ真東に位置しています。
 今回の発見で平城京の南限がこの「十条大路」に比定されることになりそうですが、対する北限の「一条(北)大路」は近鉄大和西大寺駅の北側。
 北限の大和西大寺駅から南限の郡山駅までは、南北にほぼ垂直に走っている近鉄橿原線で4駅、各駅停車で約8分。奈良時代の人はこの距離を何時間かけて歩いてらっしゃったのでしょうか。


 さて。これまで、平城京は「九条大路」が南限だとされてきていました。
 その九条大路から南へ530m下ったところで、今回の十条大路が発見されたというわけなのですが。
 この十条大路の存在は、実は数年前から指摘されていたようです。
 と、見事なほどに他人事っぷりな言い方ですが、このブログでも2005年8月のエントリで紹介しておりました。(参照-平城京はもっと大きかった?(05.8.26))
 手持ちの『ビジュアルワイド 図説日本史(Amazon)』(愛してます)の2006年度版にも、平城京解説の箇所に「十条大路があった可能性が指摘されている」旨の表記があります。ということで、2005年の発見以降は十条大路の存在がほぼ確実視されていたのでしょう。

 九条だとか十条だとか言っても分かり辛いですので、視覚で分かるよう地図を作ってみました。方向音痴の私が作ったものですので(関係ないか)詳細に見ると若干のずれ等ありますが、参考程度にどうぞ。
 以下の画像クリックで同じウィンドウに拡大表示されます。多少大きい画像ですので(600*550, 436KB)、お気をつけください。(地図データは「ちず窓β」を使用)

 

 南にある小さなオレンジ色のポイントが、今回の遺構発見現場である下三橋遺跡。その下を通るように東西に走っている赤いラインが、今回発見された十条大路の推定。十条大路北側に広がる薄いピンク(か?)の範囲が、今回の発見によって広がった平城京地域です。
 右京側には十条大路がないのかという質問の答えは存じ上げません。あしからず。でも気になりますね。


 この十条大路、「なんと大きな平城京」の年(710年)から20年ほど経った頃に廃絶されたようです。730年辺りには平城京は規模が縮小されて南北九条の都となっており(上記地図の青色の範囲)、十条大路付近は大した整備もされていなかった跡が窺えるとのこと。
 なぜそうなったのか、詳しいことはその決定を下した人に聞いてみるしかありませんが(朝日紙面では「唐の長安城を真似て藤原不比等が決めたのだろう」という一説が)、平城京から遷都された都、平安時代の長岡京や平安京では、既に「九条」が一般的になっていたようです。
 対する平城京遷都前の飛鳥時代の都、藤原京(奈良県明日香村)は、「十条」。

 ということで、平城京は、都の南北が「十条」から「九条」に変革する真っ只中にあった都だったのかもしれません。


 ちなみに、今回の下三橋遺跡での十条大路の遺構の発見を受けて、更にその南側も調査したようですが、道路遺構は見当たらなかったとのこと。
 ……さすがに十一条大路はなかったようです。
 発掘現場を覆うビニールシートの色が、時代と共に変化してきているというオモシロ記事を見つけました。
 発掘現場の見学に行く時は、遺構ばっかりに目を奪われてないで、ビニールシートも観察しなければなりません。難しいな。

保護色シートで発掘省力化 地味な自衛隊用が好評 (中国新聞 / 07.6.12)

 発掘現場でおなじみのブルーシートが、自衛隊用の深緑色に―。奈良文化財研究所(奈良市)が遺跡を覆うシートに深緑色を採用したところ、「報告書用に写真を撮る際、ブルーシートのように目立たず、外す手間が省ける」と好評で、西日本を中心に広がり始めた。
 (略)
 少し汚れると、地面になじんで一層目立たなくなるという利点があり、ここ数年、同研究所では深緑色シートが主流に。最近では奈良県明日香村の高松塚古墳や石神遺跡などでも活躍している。

 記事によると、シートの色は「オレンジ→青(水色)→深緑」と進化してきているとのこと。
 最近人気の深緑色というのは、トラックの幌(ほろ)に用いられているような色だそうです。なるほど、ああいう色か。

 私は、発掘現場を目の前で見始めたのがここ1,2年の数回という超ド級の新人ですので、ビニールシートの色の進化などまったく存じ上げません。
 が、手持ちの写真をぽつぽつ見ていたら、それらしきものを発見。おー確かに目立ってない!

 (以下、写真クリックで拡大・移動可能、再クリックで元通り)

 こちらの写真に新緑色のビニールシートが映っています。探してみましょう。
Highslide JS
平城宮跡の発掘現場。後方の巨大プレハブは復原中の平城宮大極殿



 答えはこちら。確かにカメレオンのごとく馴染んでます。
Highslide JS
ビニールシート拡大図。この拡大範囲外にもビニールシートが使われているようです



 遠くから撮影したので少々色合い悪いような気もしますが、その辺りはご寛恕ください。
 確かにあの有名な(?)青色シートよりも違和感がないです。
 発掘現場も色々なアイデアから日々進化してるんだなぁと実感した話題でした。
by Yue | 2007-06-13 | オモシロ奈良 | trackback | comment(0) | top
 奈良県桜井市にある茶臼山古墳(または「桜井茶臼山古墳」)にて、これまでの定説を200年以上さかのぼる発見がありました。
 現代の生活では身近にありすぎて意識することはなかなかないであろう、排水溝です。

高度な土木技術、石組み排水溝を確認 桜井茶臼山古墳(asahi.com / 07.6.13)

 奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山(ちゃうすやま)古墳(全長208メートル、4世紀初め、国史跡)で、墳丘にしみ込んだ雨水を抜く、石組みの地中排水溝が見つかった。天理大学(同県天理市)の考古学・民俗学研究室が今年1月、地中レーダー探査で確認した。古墳の石組み排水溝は6世紀以降の古墳で確認されているが、今回の遺構は、この200年以上前から高度な土木技術が存在したことを示す発見だ。


 桜井市は4,5世紀に造られたとみられる日本最古級の古墳が点在する地域。
 卑弥呼の墓説で有名な「箸墓古墳」(同市)に次いで古い大型前方後円墳として知られているのが、今回話題になっている茶臼山古墳です。
 そんな、まさに「古」墳から排水溝が見つかったというのは、当時の技術の高さを物語っているのでしょう。
 古墳の埋葬者は判明してませんが、副葬品の豪華さなどから大王級の人物の墳墓ではないかと推測されているようです。

 で、肝心の地中排水溝についてなのですが。
 普通に生活している分には、排水溝が必要だと思うことなんてまずないと思うのですよ私としては。だから勝手に想像して申し訳ないですけども、その考えに行き着くまでにはきっと大水害などの紆余曲折があったに違いない。
 「前に造った古墳、洪水で流されちゃったんだよなー。茶臼山はちゃんと対策立てとくか。よし古墳の内部に排水溝作ってみよう」みたいな。
 古墳の地中に排水溝て。普通そんなとこまで考えつきませんて。気回りませんて。


 さて、エントリ冒頭にも書きましたが、この茶臼山古墳での地中排水溝の発見は、それまでの定説を一新するものでした。
 これまで確認されていた地中排水溝の歴史を200年以上もさかのぼらせる発見だったからです。
 これまで最も古いとされてきた地中排水溝は、大阪府・今城塚古墳(6世紀前半)のものでした。ここは今年3月に大賑わいした古墳ですね。(参考-大王の石室支えた基盤発見 大阪・高槻の今城塚古墳(asahi.com / 07.3.1))
 この古墳、「真の継体天皇陵では」という説でも有名です。(継体天皇=第26代天皇、在位中「磐井の乱」が勃発したことで有名)
 3月の発表で更に継体天皇陵の可能性がググーンと増したのですが、現在宮内庁が継体天皇陵として比定しているのは、別の古墳。
 その古墳の名前も「茶臼山古墳」です。すごい偶然。
 区別するために、こちらの茶臼山古墳(大阪府高槻市)は「太田茶臼山古墳」、エントリの主役の茶臼山古墳(奈良県桜井市)は「桜井茶臼山古墳」と呼ぶそうです。
 茶臼山だらけ。この2ヶ所だけか。


 茶臼山という響きの楽しさを感じつつ、とにかく、古墳の地中に排水溝を造ろうと考えつくなんてすごいよ!と、ただただその一言です。
 もうこうなったら電話線とかも通ってそうな勢いだ。
拍手ありがとうございます [2007.06.12 - 独り言]
 半月ほど前のFC2ブログ仕様変更により、各エントリに拍手ボタンが追加されるようになりました。

 当ブログも気づいた時には色々なエントリに拍手をいただいており、感謝感激です。
 これからも拍手いただけるようなエントリを目指しながら、何より自分が楽しみながら学べるよう精進します。

 ということで、遅ればせながら、ありがとうございます。
by Yue | 2007-06-12 | 独り言 | trackback | comment(0) | top
奈良出身の筆ぺん [2007.06.08 - オモシロ奈良]
 こちら、我が家にある種もしかけもない筆ペンです。
くれ竹筆ぺんたち

 その筆ペンの胸元(?)に光る(?)のは、「くれ竹」の文字。
 ご存知の方も多いのではないでしょうか、筆ペンで有名なメーカーです。(企業名は「呉竹」)

 このメーカーの本社が奈良にあるという仰天記事で「うぇぇぇぇ!?」と私を驚かせたのは、先日6日の朝日新聞紙面でした。Web上にも上がっているので記事へのリンクをはっておきます。うぇぇぇぇ!
 記事――【なるほど!社会科見学】呉竹/筆ぺん (07.6.6 / asahi.com)

 この企業は明治に始まり今では創業100周年を超す老舗。
 最近では様々な商品の開発を行っているようですが、私の中の「呉竹」はやはり筆ペン(商品名は「筆ぺん」)。
 で、家の中を探し回ってみたところ、案の定呉竹出身の筆ぺんが見つかったのでした。
 思わぬところで奈良を感じたので、ブログと記念撮影したのが上の一枚。

 身近で目立たぬところでも、奈良は静かに息づいているのでした。
 今日のわんこならぬ、今日の奈良。


参考リンク
 ・株式会社 呉竹
by Yue | 2007-06-08 | オモシロ奈良 | trackback | comment(0) | top
高松塚、1361年の地震で亀裂被害か [2007.06.07 - 勝手に奈良学]
 現在解体作業中の高松塚古墳。
 石材に多くの亀裂が発生しており、取り外し作業もその亀裂を考慮しながら慎重に行わなければなりません。
 文化庁は、これらの亀裂の大半が1361年の「南海地震」によって発生したらしいという調査結果を発表しました。

石室の亀裂は1361年の南海地震が原因か 高松塚 (07.6.6 / asahi.com)

 高松塚古墳(奈良県明日香村、7世紀末〜8世紀初め)の石室解体を進める文化庁は6日、天井石の亀裂が12世紀末(鎌倉時代初めごろ)の盗掘の後にできたことが分かった、と発表した。同古墳の石室や墳丘にある無数の亀裂は、ほとんどが室町時代の1361(正平16)年に発生した南海地震を原因とする可能性が高まったとしている。

 このエントリでは、高松塚古墳ではなく南海地震にスポットを当ててみようと思います。ごめんね高松塚古墳。

 まず1361年という年代。室町時代、もしくは南北朝時代と呼ばれる頃で、当時の天皇は後村上(南朝)・後光厳(北朝)の2人です。
 地震発生と同年には目安になりそうな事柄が起こっていないのでイメージが湧きにくいですが、7年後の1368年、足利義満が征夷大将軍となっています。中国の歴史に詳しい方には、同68年に元が滅んで明が建国されたと表現すればいいのかもしれません。これで少しはこの時代のイメージが湧いたでしょうか。私はちんぷんかんぷんです。うけけ。

 「南海地震」とは、南海(紀伊半島〜四国沖)で発生する地震の総称です。
 記録されているだけでこれまでに9回発生しており、一番最近では昭和21年(1946)にマグニチュード8の地震が発生しています。
 この地震は100年ほどの周期で起こっており、一番古い記録は白鳳時代(684年、天武天皇期、「八色の姓」制定と同年)のものです。
 つまり南海地震は684年から1200年以上に渡って記録され続けており、地震史として世界的に貴重なものだそうです。

 で、肝心の「1361年に起こった南海地震」に話を戻しましょう。
 これは正平16年(南朝年号)に発生したことから、「正平南海地震」とも呼ばれています。以下はその呼び方で書きます。

 正平南海地震はマグニチュード8級の大地震で、紀伊半島から四国にかけて大きな被害をもたらしました。四国沖には5mを越す大津波が押し寄せたらしい物証も近年見つかっているようです。
 奈良県内の被害はというと、薬師寺・興福寺・法隆寺などで堂宇に被害があったという記録が残っているほか、高松塚古墳がある明日香村のカヅマヤマ古墳では地滑り跡も見つかっています。
 明日香村の震度は現代で言う「6弱」だったのではないかとの見方もあることから、とにかく相当の大地震であったことが窺えます。

 ということで、高松塚古墳の石材の亀裂はこんな地震によって発生したらしいです。
 これほどの地震なら大きな亀裂が入ってしまうのも仕方ないなと残念に思う一方、地震発生から650年ほど経った今でも崩れることなく耐え続けてきたその石材の一つ一つにハイタッチしたい気分で一杯です。それで崩れたらシャレになりませんが(笑)

 エントリを書き始めた当初は「正平南海地震はすごい」というテーマだったのですが、今は「それに持ちこたえた高松塚古墳がすごい」という気持ちでいっぱいです。
 お疲れ様、高松塚古墳の石材たち。


参考リンク
 ・南海地震に備える (製作: 高知大学理学部災害科学内「岡村土研」)
  ――四国を主眼に置いた過去の南海地震の記録など
 ・1361年正平南海地震 南国市で津波5・5M (03.10.6 / 高知新聞社)
  ――5m以上の津波が発生したらしいことと、興福寺金堂が被災したことが記載されている記事
 ・(!!PDF) 奈良県周辺の地震被害 (製作: 奈良県)

関連エントリ
 ・高松塚古墳解体のまとめ (07.04.10から随時更新中)
  ――石室解体に伴う高松塚古墳の(できるだけ)リアルタイム情報のまとめ
by Yue | 2007-06-07 | 勝手に奈良学 | trackback | comment(2) | top
 今年3月に見つかった「山田道」の遺構の下の地層から、更に古い「山田道」の遺構が見つかったようです。
 当時の最先端技術を駆使したその様子に拍手!

飛鳥の道「山田道」7世紀半ばに先進の土木技術を採用(07.6.5 / YOMIURI ONLINE)

山田道ニュース(070606 / YOMIURI ONLINE)サムネイル

 奈良文化財研究所は5日、奈良県明日香村の石神遺跡で見つかった古代の官道「山田道」が、7世紀半ばから本格整備されていたと発表した。
 大化改新(645年)後の激動期にあたり、飛鳥に中央集権化した都を建設するため、基礎部分に小枝を敷いて強化する「敷葉(しきは)工法」など先進の土木技術を使っていたことが明らかになった。
 7世紀後半から、8世紀初めにかけての山田道の遺構の下層を調べたところ、東西14メートル、南北7メートルにわたり、長さ80センチから1メートルに切りそろえた、葉のついたままのサカキなどの広葉樹の枝が南北方向に敷き詰められていることが判明。その上には砂質と粘土質の土を交互に盛っていた。


 上でも書いた通り、この「山田道」は今年3月に一度話題になっている、『万葉集』などにも登場する由緒正しき官道です。
 3月に書いた山田道エントリにてもう少し詳しい情報を記載しているので、そちらをご覧いただければと思います。(参照-明日香村の山田道はカーブがお得意 (07.03.30))

 この3月に発見された遺構は7世紀後半以降に作られたのものとされていました。
 しかしその遺構を更に10cmほど掘り下げたところ、今回話題になっている7世紀半ばに作られたと見られる「山田道」の遺構が確認されたとのこと。

 朝日新聞紙面の「『山田道』掘ったら『山田道』」という一文が今回の発見を端的に表現しています。ナイスです朝日新聞。


 で、今回の発見で特徴的なのは、「敷葉(しきは)工法」。
 枝葉を敷き詰めてその上に土砂を盛ることにより道路を作り上げるというこれは、当時の最先端の渡来系の工法だったようです。
 「水はけの悪い地盤を強化していたらしい(朝日新聞紙面)」らしいです。らしいのオンパレードで申し訳ない。


 史書などでは確認されていたものの、実際にはほとんど解明されていなかった「幻の道・山田道」ですが、ここに来て徐々に姿を現し始めました。


 ……ここまで書いて思い出した。
 先日明日香へ行った時、今回山田道が発見された石神遺跡を遠くから眺めてきたのでした。
 発掘調査してるから近寄りがたくて、何の調査してるんだろうとのんびり思っておったのですが。
 そうか、あれは山田道の調査だったのか……!近づいていけばよかった……!!


関連エントリ
 ・明日香村の山田道はカーブがお得意 (07.03.30)
すごー! [2007.06.02 - 独り言]
 今凄まじい音がして「敵襲か!雷か!」とふざけた気持ち満々で外に出たら、普通じゃない飛行機がうちの家の真上を飛んでいきました。
 どうやら航空自衛隊の飛行機のようです。今日が式典なんだそうで。
空自機騒音、苦情相次ぐ 京都府南部や大津 4機が低空演習

 (略)
 防衛省航空幕僚監部広報室によると、戦闘機などの飛行は、奈良市の空自隊奈良基地が6月2日の記念行事で行う展示飛行の予行演習だった。
 演習は午後1時すぎから約30分間行われ、F15、F2の戦闘機2機とRF4偵察機2機が奈良基地上空を通過後、府南部地域を高度830−1000メートル、大津市上空を1000−1800メートルで飛行したという。

 上の記事は今日の予行演習飛行の話題なんですけども、そりゃもうすごい音でした。
 シュゴー!!という感じ。あんな音が現実にあるのかと思うような感じ。たった2機の飛行機が飛んだだけであんな音がするのかという感じ。さすが旅客機とは違うなという感じ。……とにかくそういう感じ。
 すんごいですね自衛隊の飛行機は。すごー!
 うちの鳥もビックリして「ギョッ!ギョッ!」と懸命に威嚇してました(笑)
by Yue | 2007-06-02 | 独り言 | trackback | comment(0) | top
日本と中国を繋げ続ける唐招提寺 [2007.06.02 - 勝手に奈良学]
 奈良ニュースをまとめ読みしていてふと目についた話題。
 唐招提寺の開山御廟(かいざんごびょう・鑑真の墓所)に立っている灯篭(とうろう)が主役です。
【奈良を学ぶ】唐招提寺・開山御廟 (asahi.com / 07.5.29)

 (略)
 4月12日、来日していた中国の温家宝首相が国会で演説した。相互信頼、平等互恵、交流強化をうたった演説を、温首相はこう締めくくった。

 「議員の諸先生方、揚州・大明寺の鑑真記念堂に一つの石灯籠があります。これは、1980年に日本の唐招提寺の森本孝順長老が自ら送り届け、自らともしたものです。この石灯籠は日本の唐招提寺にあるもう一つの石灯籠と一組になっています。この一組の灯籠は今なお消えることなく燃え続け、はるか遠くから互いに照り映え、中日両国人民の子々孫々にわたる友好の明るい将来を象徴しています」

 ということで、唐招提寺の開山御廟前にある灯篭と、中国の大明寺にある灯篭は、20年来の兄弟だそうです。

 大明寺は中国・揚州にある寺院。公式サイトURLから察するに、現地では「damingsi」と発音するようです。ダイミン……その後が分からん……(笑)。ダイミンシ?
 大明寺サイトは以下URLからご覧ください。もちろん全中国語ですが。
 http://www.damingsi.com/

 閑話休題。
 このdaimingsi、もとい大明寺は、日本に来る前の鑑真が住職を務めていた寺院です。
 その歴史は古く、日本で言う古墳時代に創建されたのだとか。
 まさかこの奈良ブログで中国のサイトを覗く事になるとは思いませんでしたので、ここまで来たら開き直って、公式サイトの中国語を引用させていただきます。
大明寺因初建于南朝刘宋孝武帝大明年间(457―464)而得名。1500余年来,寺名多有变化,如隋代称“栖灵寺”、“西寺”,唐末称“秤平”等。清代,因讳“大明”二字,一度沿称“栖灵寺”,乾隆三十年皇帝亲笔题书“敕题法净寺”。1980年,大明寺恢复原名。

 たぶん、日本語訳はこういう感じなんでしょう。
 「大明寺が初めて建てられたのは宋孝武帝(どこで切るのか分かりません)の大明年間の457〜464年の頃なんですよ。
 その後の1500年余りの間にお寺の名前は次々に変わっていき、「栖灵寺」や「西寺」など色々な呼ばれ方がされてまいりました。
 でも1980年、「大明寺」という名前に復活し、今に至ります。」

 中国語を理解してなくてもぼんやり想像がつくのがすごいですねぇ。漢字は偉大です。

 とにかくこの大明寺はとてつもなく古い歴史を持っている寺院なのです。
 日本で一番最初にできた本格寺院・飛鳥寺の創建は596年。大明寺はそれより140年ほど先輩なわけですね。今を基点に考えると140年前は1867年。明治維新の頃か。完全に日本史感覚の時代です。


 そんな2つの寺院が現在も灯篭によって繋がりを持ち続けている。
 1300年前から中国と深い関係にある唐招提寺だからこそ胸に沁みてくるものがある、素敵なお話でした。


 さてその唐招提寺では、ちょうど今日2日から10日まで、特別公開が行われています(参照-唐招提寺の国宝三尊、久々の再会 (07.05.30))。
 いらっしゃる皆さん、その時はぜひぜひ開山御廟に立っている灯篭にも会いにいってみてください。中国の大明寺に脳内トリップできるかもしれませんよ。


参考リンクまとめ
 ・唐招提寺 公式サイト
 ・大明寺(中国・揚州) 公式サイト(!!中国語)

関連エントリ
 ・東大寺の獅子にブラザーが! (06.12.11)
  ――唐招提寺・大明寺の灯篭タッグよりも更に古いと見られている、東大寺・ニンポーの獅子兄弟。鎌倉時代以来の兄弟らしい
by Yue | 2007-06-02 | 勝手に奈良学 | trackback | comment(0) | top
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