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by Yue | 2008-08-20 | | top
飛鳥池遺跡、石見銀山の先輩に [2007.07.01 - 遺跡・文化財の出土、判明]
石見銀山、世界遺産登録おめでとうございます。
狙ったのか、それともたまたまなのか。登録が決まった翌日、石見銀山と奈良県の縁が公表されました。
このエントリの主役は、石見銀山(16世紀ごろから最盛期)から900年ほど先輩の、飛鳥池遺跡(7,8世紀)です。
飛鳥池遺跡というのは、明日香村にある飛鳥時代の工房跡。金、銀、ガラスなど、多岐に亘る出土品が見つかっています。
特に有名なのが、「富本銭」と「天皇木簡」。
近年わが国最古の貨幣として認識されるようになった「富本銭」は、この遺跡で見つかるまでは、貨幣として使用されていないと考えられてました。
「天皇木簡」は、我が国で最古の「天皇」という2文字が書かれている木簡です。
などなど、実に色々なものを隠し持っている飛鳥池遺跡。
前者は1998年に見つかり、後者はその翌年・1999年に見つかっていることからも分かる通り、飛鳥池遺跡で様々な歴史的な発見がされるようになったのは、つい10年ほど前から。
今回の「銀精錬技術」の発見もしかり。
16世紀が最古だと考えられていたものを、900年もポーンと飛び級(?)してしまった飛鳥池遺跡に、拍手!
飛鳥池遺跡の地面はブラックホールです。
狙ったのか、それともたまたまなのか。登録が決まった翌日、石見銀山と奈良県の縁が公表されました。
このエントリの主役は、石見銀山(16世紀ごろから最盛期)から900年ほど先輩の、飛鳥池遺跡(7,8世紀)です。
飛鳥池遺跡で銀精錬 石見より900年早く(07.6.29 / asahi.com)
銅銭などを製造する飛鳥時代の官営工房だった奈良県明日香村の飛鳥池遺跡(7世紀後半〜8世紀初め)で、銀の精錬をしていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。国内で確認されている銀の精錬はこれまで、世界遺産に登録された石見銀山(島根県大田市)に伝わったのが最も古い例とされており、これを900年さかのぼることになる。
飛鳥池遺跡というのは、明日香村にある飛鳥時代の工房跡。金、銀、ガラスなど、多岐に亘る出土品が見つかっています。
特に有名なのが、「富本銭」と「天皇木簡」。
近年わが国最古の貨幣として認識されるようになった「富本銭」は、この遺跡で見つかるまでは、貨幣として使用されていないと考えられてました。
「天皇木簡」は、我が国で最古の「天皇」という2文字が書かれている木簡です。
などなど、実に色々なものを隠し持っている飛鳥池遺跡。
前者は1998年に見つかり、後者はその翌年・1999年に見つかっていることからも分かる通り、飛鳥池遺跡で様々な歴史的な発見がされるようになったのは、つい10年ほど前から。
今回の「銀精錬技術」の発見もしかり。
16世紀が最古だと考えられていたものを、900年もポーンと飛び級(?)してしまった飛鳥池遺跡に、拍手!
飛鳥池遺跡の地面はブラックホールです。
高松塚古墳の床石4兄弟、お目見え [2007.06.29 - 遺跡・文化財の出土、判明]
26日の作業をもって、とりあえず一段落した高松塚古墳の石室解体。
今現地に残っているのは4枚の床石だけで、何とも不思議な感じがします。
“高松塚=壁画”のイメージしか持っていなかった私は、床石を見て初めて「あーこの古墳には床があったのかー!」と妙な感心をしてしまいました。
上の写真を何度見ても、高松塚であるのに高松塚でない感じ。床石4枚だけでは寂しそうにも見えます。寒そう。夏だけども。
この4兄弟は、7月下旬に取り外し作業が行われ、その後他の石材たちと合流するとのこと。
あともう少し頑張っていてください、床石4兄弟!
ところで上の写真を見てふと何かを思い浮かべてすぐさま忘れたので、それを思い出すまでうんうん唸ってたのですが。無事思い出しました。無事?
高松塚の床石の雰囲気が、同・明日香村にある石造物「鬼の俎(まないた)」に似てるのですよねー。

その名の通り、鬼がこの石をまな板にして人間をおいしく調理したという曰くつきの石です。見ての通り安定感は抜群で、きっとおいしい料理ができたのでしょう。こうなれば包丁がどんな感じだったのかも気になりますね。
……ではなく、この「鬼の俎」も、高松塚の床石4兄弟と同じく、古墳の床石らしいと推測されています。
写真を見る限りでは、高松塚の方が洗練された感じでしょうか。
いやいやでも俎の特異な形も気になります。
高松塚古墳は8世紀初め、鬼の俎は7世紀末。
時代も似ていることですし、高松塚古墳石室(床石限定)の雰囲気を感じたい方は、「鬼の俎」を見に行くのもいいかもしれません。
高松塚古墳エントリがいつの間にか鬼の俎エントリに……。
関連エントリ
・高松塚古墳解体のまとめ (最終更新: 07.6.29)
今現地に残っているのは4枚の床石だけで、何とも不思議な感じがします。
高松塚、床石だけの石室写真公開…厚さ50cmの岩4枚 (07.6.27 / YOMIURI ONLINE)
奈良県明日香村、高松塚古墳(8世紀初め)の石室解体で、文化庁は27日、国宝の極彩色壁画が描かれた側壁や天井石などがすべて取り外され、床石だけになった石室の写真を公開した。
(略)
床石は厚さ約50センチの凝灰岩4枚を南北に並べ、長さ3・2メートル、幅1・6メートル。側壁と組み合わせるため、外周は中央部より約3センチ低くなっている。
“高松塚=壁画”のイメージしか持っていなかった私は、床石を見て初めて「あーこの古墳には床があったのかー!」と妙な感心をしてしまいました。
上の写真を何度見ても、高松塚であるのに高松塚でない感じ。床石4枚だけでは寂しそうにも見えます。寒そう。夏だけども。
この4兄弟は、7月下旬に取り外し作業が行われ、その後他の石材たちと合流するとのこと。
あともう少し頑張っていてください、床石4兄弟!
ところで上の写真を見てふと何かを思い浮かべてすぐさま忘れたので、それを思い出すまでうんうん唸ってたのですが。無事思い出しました。無事?
高松塚の床石の雰囲気が、同・明日香村にある石造物「鬼の俎(まないた)」に似てるのですよねー。

その名の通り、鬼がこの石をまな板にして人間をおいしく調理したという曰くつきの石です。見ての通り安定感は抜群で、きっとおいしい料理ができたのでしょう。こうなれば包丁がどんな感じだったのかも気になりますね。
……ではなく、この「鬼の俎」も、高松塚の床石4兄弟と同じく、古墳の床石らしいと推測されています。
写真を見る限りでは、高松塚の方が洗練された感じでしょうか。
いやいやでも俎の特異な形も気になります。
高松塚古墳は8世紀初め、鬼の俎は7世紀末。
時代も似ていることですし、高松塚古墳石室(床石限定)の雰囲気を感じたい方は、「鬼の俎」を見に行くのもいいかもしれません。
高松塚古墳エントリがいつの間にか鬼の俎エントリに……。
関連エントリ
・高松塚古墳解体のまとめ (最終更新: 07.6.29)
石神遺跡から飛鳥時代のノコギリ出土 [2007.06.29 - 遺跡・文化財の出土、判明]
先日、石神遺跡でノコギリが見つかったとの発表がありました。
ノコギリの直径は44.5cm。柄と刃の長さが1:1ぐらいだろうと写真から勝手に推測したとして、刃の長さは22cmちょっとぐらいでしょうか。
A4用紙の横幅が20cmちょっとなので、それプラス2cmほどだと考えていただければ想像しやすいかもしれないです。
個人的に驚いたのは、柄の作りこみ具合。くびれができているのも見事ですが、木材の角を削って丸めているのにも感心しました。握りやすさを追求した至極の逸品です。深夜の通販みたいな言い方だ。
ところで、このノコギリが出土した「石神遺跡」。
少し前に話題になった、山田道発見の場所でもあります。(参考-更に時代をさかのぼる「山田道」が見つかる (07.06.06))
掘っても掘っても色んなものを見せてくれる石神遺跡が今、暑い!違う、熱い!でもやっぱり暑い!
(奈良検定テキストには石神遺跡の項がないですね。テキスト作成時期が1年遅れて今頃になってたら、きっと石神遺跡の項も追加されたのではないかなーと勝手に思っていたり。次回の試験ではもしかすると「テキスト外」からの問題として出題されるかも?)
7世紀の大型ノコギリ、木の柄も残った…明日香村で出土柄の雰囲気が火縄銃に似てる気がして、「飛鳥時代の銃!?」と一瞬驚いたのですが、さすがにそんなミラクルは起きませんでした。
奈良県明日香村の石神遺跡(飛鳥時代)で、7世紀後半とみられるノコギリ(長さ44・5センチ)が、奈良文化財研究所の調査で見つかった。都の近くで、柄も残ったほぼ完全な状態での出土は珍しいという。
ノコギリの直径は44.5cm。柄と刃の長さが1:1ぐらいだろうと写真から勝手に推測したとして、刃の長さは22cmちょっとぐらいでしょうか。
A4用紙の横幅が20cmちょっとなので、それプラス2cmほどだと考えていただければ想像しやすいかもしれないです。
個人的に驚いたのは、柄の作りこみ具合。くびれができているのも見事ですが、木材の角を削って丸めているのにも感心しました。握りやすさを追求した至極の逸品です。深夜の通販みたいな言い方だ。
ところで、このノコギリが出土した「石神遺跡」。
少し前に話題になった、山田道発見の場所でもあります。(参考-更に時代をさかのぼる「山田道」が見つかる (07.06.06))
掘っても掘っても色んなものを見せてくれる石神遺跡が今、暑い!違う、熱い!でもやっぱり暑い!
(奈良検定テキストには石神遺跡の項がないですね。テキスト作成時期が1年遅れて今頃になってたら、きっと石神遺跡の項も追加されたのではないかなーと勝手に思っていたり。次回の試験ではもしかすると「テキスト外」からの問題として出題されるかも?)
西大寺の「伊賀栗木簡」ら、一気に200歳年をとる [2007.06.16 - 遺跡・文化財の出土、判明]
去年11月に西大寺の食堂(じきどう)跡から「伊賀栗木簡(勝手に命名)」が出土したと大騒ぎになりました。いや、大騒ぎしました。私が。お恥ずかしい。(参照-西大寺の食堂跡から木簡が見つかる (06.11.21))
出土した木簡は「伊賀栗木簡」含む全60点あまりで、その中に「正暦二年」と記されていたものがあったことから、あぁじゃあこれらの木簡は991(正暦2)年前後に書かれた"10世紀末"のものだ、となっていたのですが。
発見から半年以上経った先日、この「正暦二年」という年号は実は記載ミスらしいという発表があり、木簡の年齢は一気に200年近く遡って"8世紀末"のものに訂正されました。
正確な年号は、「正暦」ではなく、「延暦」。
上にも書いたとおり、もともとの発表は「正暦二年」、991年。この頃は平安時代中期、一条天皇(第66代)、藤原氏全盛期です。
ここから200年以上さかのぼった「延暦二年」は、783年。鳴くよウグイス年(794年)の手前ですから、奈良時代末期に当たるのでしょう。この頃の天皇は在位3年目の桓武。翌年の784年には長岡京への遷都が行われています。
当初、木簡の年代を「正暦二年(10世紀末)」としたのは木簡の記載ミスも影響していますが、実はこれ以外にもその年号が妥当だと思わせる要素はあったようです。
と言うのも、この木簡が出土したのは西大寺食堂跡の井戸跡。その井戸の"周辺"から、10世紀("10世紀末"ではない)の土器が出土しているのです。このことから、木簡の「正暦二年」記載も真実味を増していたのです。
ところがどっこい、その後の調査で井戸"跡"から8世紀の土器が見つかり、その上「延暦」(8世紀末)との記載がある木簡もどんどん出土。
井戸跡から出土するのは基本的に8世紀末のものだという雰囲気が強まり、「これじゃあ1枚だけ見つかった"正暦"と書かれてる木簡が不自然すぎる。もしかして他の木簡と同じような"延暦"と書くところを間違って書いたんじゃないの?」となり、今回の発表に至ったモヨウです。
しっかし楽しいですね。当時の人は何の気無しに起こしたかもしれない行動が、今の時代では学説を左右するまでになる。
私も気を引き締めて日常を過ごさないと、1000年とか2000年経った頃に、私のアホみたいな行動の残骸(?)が発見されて、「これが当時の人の生活だった!」とか言って全体化されるかもしれないんですね。
こりゃぁ平成時代を生きる人間一人ひとりが重大責任です。
関連エントリ
・西大寺の食堂跡から木簡が見つかる (06.11.21)
出土した木簡は「伊賀栗木簡」含む全60点あまりで、その中に「正暦二年」と記されていたものがあったことから、あぁじゃあこれらの木簡は991(正暦2)年前後に書かれた"10世紀末"のものだ、となっていたのですが。
発見から半年以上経った先日、この「正暦二年」という年号は実は記載ミスらしいという発表があり、木簡の年齢は一気に200年近く遡って"8世紀末"のものに訂正されました。
正確な年号は、「正暦」ではなく、「延暦」。
奈良・西大寺食堂院跡 木簡「8世紀末」に修正…奈文研(Sankei Web / 07.6.14)
奈良文化財研究所(奈良市)は、昨年11月に発表した同市の西大寺食堂(じきどう)院跡で見つかった木簡の年代を10世紀末から、8世紀末に修正した。木簡には「正暦二年」(991年)と書いていたが、その後の調査で「延暦」と読める木簡が新たに5点確認されたためで、同研究所は「状況から正暦は延暦を意図して書いたと解釈するのが穏当」とし、書き間違えたとの見方を示している。
上にも書いたとおり、もともとの発表は「正暦二年」、991年。この頃は平安時代中期、一条天皇(第66代)、藤原氏全盛期です。
ここから200年以上さかのぼった「延暦二年」は、783年。鳴くよウグイス年(794年)の手前ですから、奈良時代末期に当たるのでしょう。この頃の天皇は在位3年目の桓武。翌年の784年には長岡京への遷都が行われています。
当初、木簡の年代を「正暦二年(10世紀末)」としたのは木簡の記載ミスも影響していますが、実はこれ以外にもその年号が妥当だと思わせる要素はあったようです。
と言うのも、この木簡が出土したのは西大寺食堂跡の井戸跡。その井戸の"周辺"から、10世紀("10世紀末"ではない)の土器が出土しているのです。このことから、木簡の「正暦二年」記載も真実味を増していたのです。
ところがどっこい、その後の調査で井戸"跡"から8世紀の土器が見つかり、その上「延暦」(8世紀末)との記載がある木簡もどんどん出土。
井戸跡から出土するのは基本的に8世紀末のものだという雰囲気が強まり、「これじゃあ1枚だけ見つかった"正暦"と書かれてる木簡が不自然すぎる。もしかして他の木簡と同じような"延暦"と書くところを間違って書いたんじゃないの?」となり、今回の発表に至ったモヨウです。
しっかし楽しいですね。当時の人は何の気無しに起こしたかもしれない行動が、今の時代では学説を左右するまでになる。
私も気を引き締めて日常を過ごさないと、1000年とか2000年経った頃に、私のアホみたいな行動の残骸(?)が発見されて、「これが当時の人の生活だった!」とか言って全体化されるかもしれないんですね。
こりゃぁ平成時代を生きる人間一人ひとりが重大責任です。
関連エントリ
・西大寺の食堂跡から木簡が見つかる (06.11.21)
平城京、南北九条から十条へレベルアップ [2007.06.14 - 遺跡・文化財の出土、判明]
昨夜からわりかし大きく報道されている、平城京における「十条大路」が確認されたという話題。「くじょう」は聞き慣れているけれど「じゅうじょう」はなかなか耳にしないので、何やら神聖な感じがあります。あ、「畳じゅうじょう」とは言うか。
今回「十条大路」の遺構が発見された下三橋(しもみつはし)遺跡は、近鉄・JR郡山駅のほぼ真東に位置しています。
今回の発見で平城京の南限がこの「十条大路」に比定されることになりそうですが、対する北限の「一条(北)大路」は近鉄大和西大寺駅の北側。
北限の大和西大寺駅から南限の郡山駅までは、南北にほぼ垂直に走っている近鉄橿原線で4駅、各駅停車で約8分。奈良時代の人はこの距離を何時間かけて歩いてらっしゃったのでしょうか。
さて。これまで、平城京は「九条大路」が南限だとされてきていました。
その九条大路から南へ530m下ったところで、今回の十条大路が発見されたというわけなのですが。
この十条大路の存在は、実は数年前から指摘されていたようです。
と、見事なほどに他人事っぷりな言い方ですが、このブログでも2005年8月のエントリで紹介しておりました。(参照-平城京はもっと大きかった?(05.8.26))
手持ちの『ビジュアルワイド 図説日本史(Amazon)』(愛してます)の2006年度版にも、平城京解説の箇所に「十条大路があった可能性が指摘されている」旨の表記があります。ということで、2005年の発見以降は十条大路の存在がほぼ確実視されていたのでしょう。
九条だとか十条だとか言っても分かり辛いですので、視覚で分かるよう地図を作ってみました。方向音痴の私が作ったものですので(関係ないか)詳細に見ると若干のずれ等ありますが、参考程度にどうぞ。
以下の画像クリックで同じウィンドウに拡大表示されます。多少大きい画像ですので(600*550, 436KB)、お気をつけください。(地図データは「ちず窓β」を使用)

南にある小さなオレンジ色のポイントが、今回の遺構発見現場である下三橋遺跡。その下を通るように東西に走っている赤いラインが、今回発見された十条大路の推定。十条大路北側に広がる薄いピンク(か?)の範囲が、今回の発見によって広がった平城京地域です。
右京側には十条大路がないのかという質問の答えは存じ上げません。あしからず。でも気になりますね。
この十条大路、「なんと大きな平城京」の年(710年)から20年ほど経った頃に廃絶されたようです。730年辺りには平城京は規模が縮小されて南北九条の都となっており(上記地図の青色の範囲)、十条大路付近は大した整備もされていなかった跡が窺えるとのこと。
なぜそうなったのか、詳しいことはその決定を下した人に聞いてみるしかありませんが(朝日紙面では「唐の長安城を真似て藤原不比等が決めたのだろう」という一説が)、平城京から遷都された都、平安時代の長岡京や平安京では、既に「九条」が一般的になっていたようです。
対する平城京遷都前の飛鳥時代の都、藤原京(奈良県明日香村)は、「十条」。
ということで、平城京は、都の南北が「十条」から「九条」に変革する真っ只中にあった都だったのかもしれません。
ちなみに、今回の下三橋遺跡での十条大路の遺構の発見を受けて、更にその南側も調査したようですが、道路遺構は見当たらなかったとのこと。
……さすがに十一条大路はなかったようです。
定説覆す、平城京「九条大路」の南に「十条大路」の遺構 (YOMIURI ONLINE / 07.6.13)
(※ユエ注-記事内写真は、手前の溝から奥の溝までが十条大路の「道幅」です。つまり十条大路は写真を左右に走っていたことになります。)
奈良県大和郡山市の下三橋(しもみつはし)遺跡で、奈良時代の都、平城京(710〜784年)の最南端にあたる「十条大路」の遺構が初めて確認され、同市教委と元興寺文化財研究所が13日、発表した。
平城京は南北九条という従来の定説を覆し、その前の藤原京(694〜710年、同県橿原市)と同様、十条で計画されたことが明らかになった。
今回「十条大路」の遺構が発見された下三橋(しもみつはし)遺跡は、近鉄・JR郡山駅のほぼ真東に位置しています。
今回の発見で平城京の南限がこの「十条大路」に比定されることになりそうですが、対する北限の「一条(北)大路」は近鉄大和西大寺駅の北側。
北限の大和西大寺駅から南限の郡山駅までは、南北にほぼ垂直に走っている近鉄橿原線で4駅、各駅停車で約8分。奈良時代の人はこの距離を何時間かけて歩いてらっしゃったのでしょうか。
さて。これまで、平城京は「九条大路」が南限だとされてきていました。
その九条大路から南へ530m下ったところで、今回の十条大路が発見されたというわけなのですが。
この十条大路の存在は、実は数年前から指摘されていたようです。
と、見事なほどに他人事っぷりな言い方ですが、このブログでも2005年8月のエントリで紹介しておりました。(参照-平城京はもっと大きかった?(05.8.26))
手持ちの『ビジュアルワイド 図説日本史(Amazon)』(愛してます)の2006年度版にも、平城京解説の箇所に「十条大路があった可能性が指摘されている」旨の表記があります。ということで、2005年の発見以降は十条大路の存在がほぼ確実視されていたのでしょう。
九条だとか十条だとか言っても分かり辛いですので、視覚で分かるよう地図を作ってみました。方向音痴の私が作ったものですので(関係ないか)詳細に見ると若干のずれ等ありますが、参考程度にどうぞ。
以下の画像クリックで同じウィンドウに拡大表示されます。多少大きい画像ですので(600*550, 436KB)、お気をつけください。(地図データは「ちず窓β」を使用)

南にある小さなオレンジ色のポイントが、今回の遺構発見現場である下三橋遺跡。その下を通るように東西に走っている赤いラインが、今回発見された十条大路の推定。十条大路北側に広がる薄いピンク(か?)の範囲が、今回の発見によって広がった平城京地域です。
右京側には十条大路がないのかという質問の答えは存じ上げません。あしからず。でも気になりますね。
この十条大路、「なんと大きな平城京」の年(710年)から20年ほど経った頃に廃絶されたようです。730年辺りには平城京は規模が縮小されて南北九条の都となっており(上記地図の青色の範囲)、十条大路付近は大した整備もされていなかった跡が窺えるとのこと。
なぜそうなったのか、詳しいことはその決定を下した人に聞いてみるしかありませんが(朝日紙面では「唐の長安城を真似て藤原不比等が決めたのだろう」という一説が)、平城京から遷都された都、平安時代の長岡京や平安京では、既に「九条」が一般的になっていたようです。
対する平城京遷都前の飛鳥時代の都、藤原京(奈良県明日香村)は、「十条」。
ということで、平城京は、都の南北が「十条」から「九条」に変革する真っ只中にあった都だったのかもしれません。
ちなみに、今回の下三橋遺跡での十条大路の遺構の発見を受けて、更にその南側も調査したようですが、道路遺構は見当たらなかったとのこと。
……さすがに十一条大路はなかったようです。







