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2008-08

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by Yue | 2008-08-20 | | top
奈良時代から続く「七夕」 [2007.07.06 - 勝手に奈良学]
 さて、明日は星に願いをする日、七夕です。奈良の天気はどうやら芳しくないようですが、皆さんのところはいかがでしょうか。

 「七夕は奈良時代に始まったらしい」という話の“奈良”の文字に脳内センサーがピコーンと反応したので、七夕について調べてみました。

七夕の起源は中国
 もともとの起源は中国の宮中行事「乞巧奠(きこうでん)」だとされています。
 「乞」は「乞い願う」こと、「巧」は「巧み」になること、「奠」は「まつる」こと。
 当時の中国で重要とされた機織りや詩歌などが「巧み」になるよう「乞い願う」ために行っていた、「まつり」事の行事のようです。
 (「奠」という字は中国語かと思っていたら、手持ちの漢和辞典『漢字源』で「まつる」としてきちんと表記されていました。未知との遭遇)

中国と日本の融合
 「たなばた(七夕)」は古来「棚機」と表記されていました。これは『古事記』に記されている「棚機津女(たなばたつめ)」という女性の名前から来ています。
 この棚機津女さんは、機(はた)で織り上げた布を神に捧げることによって村を災いから救ってもらうように願い、神の降臨を待ったという女性。
 これは日本の伝説なのですが、この伝説と上記中国の「乞巧奠」が習合し、「七夕」という行事が行われるようになったようです。

古文書にみる「七夕」
 「七夕(棚機)」という直接の言及はありませんが、691年・持統天皇時代の7月7日に宮中行事が行われたことが『日本書紀』に記されています。
持統五年(691)七月丙子《七》◆丙子。宴公卿。仍賜朝服。

  ――「古事記正解」さんの「『日本書紀』テキスト」より
 これが初めて日本で行われた「七夕」に関連する行事とされているのだとか。

 その後、同・持統天皇の治世である奈良時代以降にこの行事が宮中で定着したことから、「七夕は奈良時代に始まったらしい」ということになったのではないかと思われます。

 「七夕」という単語が直接的に使われ始めた時期までは調べ切れませんでしたが、上記から40年ほど経った聖武天皇時代の『続日本紀』に「たなばた」の文字がありました。
 年は734年。『風土記(出雲版)』完成の翌年です。
秋七月七日
 (略)
 この夕べ、南苑に移って、文人に命じ七夕の詩を作らせられ、出来に応じて禄を賜った。

  ――『続日本紀 全現代語訳(上)』

 「聖武天皇辺りはお祭り好きっぽいから特に七夕のお祭をやってそうだなー」と思って何気なく調べてみたら、ほんとにしてらっしゃったようです(笑)


 「七夕」の言及があるのは歴史書だけではありません。天下の『万葉集』の詩にも詠まれています。
棚機之 五百機立而 織布之 秋去衣 孰取見 (作者未詳)
 《棚機の 五百機立てて 織る布の 秋さり衣 誰かとりみむ》

多奈波多之 船乗須良之 麻蘇鏡 吉欲伎月夜尓 雲起和多流 (大伴家持)
 《織女し 舟乗りすらし まそ鏡 清き月夜に 雲立ち渡る》

  ――原文・訳文共に「古事記正解」さんの「『萬葉集』テキスト」より

 同『万葉集』には、織姫と彦星を詠ったロマンチックな歌もあります。
織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長
 《たなばたの 今夜逢ひなば 常のごと 明日を隔てて 年は長けむ》
 <織姫が、今夜(彦星に)逢ったなら、いつものように、明日を境(さかい)として(また逢えない)一年間は長いことであろう。>

 ――原文・訳文共に古事記正解」さんの「『萬葉集』テキスト」より
 ――現代語訳は『全訳古語辞典』(旺文社)より

 織姫と彦星が1年に1度しか会えないという伝説は、この当時からあったのですね!ビックリ。


 以上が奈良時代辺りまでの「七夕」。
 現在のように一般的に広まったのは、江戸時代以降とされているようです。
 江戸時代の「七夕」の根本は古代のそれと同じで、習い事(裁縫や書道)の上達を願うための行事だったのだとか。
 それが今では「短冊に願い事を書いて笹につるせば、どんな願い事も叶うよ!」という行事に変化しているのが、これまた面白いです。
 現代人は太っ腹?か?


関連リンク
 ・古事記正解
   ――エントリ中のデータを引用させていただきました
 ・七夕の節句 (日本の文化いろは辞典>五節句>七夕の節句)
   ――七夕の歴史の簡単説明
by Yue | 2007-07-06 | 勝手に奈良学 | trackback | comment(2) | top
四都を比較してみた [2007.06.17 - 勝手に奈良学]
 先日、平城京の南端は十条大路だったという発表がありました。(参照-平城京、南北九条から十条へレベルアップ (07.06.14))
 ふと「そういえば他の都の大きさはどんなもんだったんだろう」と思い立ちまして、調べてみました。
 平城京とその前後の4つの都、藤原京、平城京、長岡京、平安京を比較。なかなか楽しかったです。

 簡単図を作ったので、そちらをご覧いただけると多少は分かりやすいかと思います。
 画像クリックで同じウィンドウに大き目の画像が表示されます(640*512,88KB)。

四都比較図、その1(thumb)

 見辛いという場合は更に大きな画像もありますので(800*640, 246KB)、こちらをどうぞ。

 白い点線が走っているのは、大きさ比較のためです。模様ではありません。

 以下、箇条書きで気づいた点を羅列していくと……
  • 面積は「藤原京>平安京>平城京・長岡京」の順
  • 藤原京・平城京は南北「十条」、長岡京、平安京は南北「九条」
  • 藤原京は数年前までは「2.1×3.1(km), 6.5平方キロ」とされていたが、最近の調査で一気に広まった
  • 平城京と長岡京はサイズが同じ(現在発見されている限りは)
    • しかし平城京は南北「十条」であるのに対し、長岡京は南北「九条」
  • そうかー平安京は明治維新が起こるまでは都だったのかー
  • 4つとも東西南北の距離の数字が似たり寄ったりだから、4つの図を重ねても、かぶりまくって意味が分からなくなるんだよねぇ……

 最後の2つはまぁ私の勝手な呟きです。
 特に最後の1つはもう……。最初図を作った時、作り終えてから思わず呆然としましたもん。平安京以外の3つの都は特に、数字が似通っているのです(と言うかむしろ、平安京が異質?)。だから重ね合わせた図を作っても分かり辛いのなんの。
 でもせっかくなんで、その図も載せておきます。平城京と長岡京の双子っぷりには驚かされるばかりです。ははは。(クリックで拡大-400*280, 31.3KB)
四都比較図、その1(thumb)

by Yue | 2007-06-17 | 勝手に奈良学 | trackback | comment(5) | top
高松塚、1361年の地震で亀裂被害か [2007.06.07 - 勝手に奈良学]
 現在解体作業中の高松塚古墳。
 石材に多くの亀裂が発生しており、取り外し作業もその亀裂を考慮しながら慎重に行わなければなりません。
 文化庁は、これらの亀裂の大半が1361年の「南海地震」によって発生したらしいという調査結果を発表しました。

石室の亀裂は1361年の南海地震が原因か 高松塚 (07.6.6 / asahi.com)

 高松塚古墳(奈良県明日香村、7世紀末〜8世紀初め)の石室解体を進める文化庁は6日、天井石の亀裂が12世紀末(鎌倉時代初めごろ)の盗掘の後にできたことが分かった、と発表した。同古墳の石室や墳丘にある無数の亀裂は、ほとんどが室町時代の1361(正平16)年に発生した南海地震を原因とする可能性が高まったとしている。

 このエントリでは、高松塚古墳ではなく南海地震にスポットを当ててみようと思います。ごめんね高松塚古墳。

 まず1361年という年代。室町時代、もしくは南北朝時代と呼ばれる頃で、当時の天皇は後村上(南朝)・後光厳(北朝)の2人です。
 地震発生と同年には目安になりそうな事柄が起こっていないのでイメージが湧きにくいですが、7年後の1368年、足利義満が征夷大将軍となっています。中国の歴史に詳しい方には、同68年に元が滅んで明が建国されたと表現すればいいのかもしれません。これで少しはこの時代のイメージが湧いたでしょうか。私はちんぷんかんぷんです。うけけ。

 「南海地震」とは、南海(紀伊半島〜四国沖)で発生する地震の総称です。
 記録されているだけでこれまでに9回発生しており、一番最近では昭和21年(1946)にマグニチュード8の地震が発生しています。
 この地震は100年ほどの周期で起こっており、一番古い記録は白鳳時代(684年、天武天皇期、「八色の姓」制定と同年)のものです。
 つまり南海地震は684年から1200年以上に渡って記録され続けており、地震史として世界的に貴重なものだそうです。

 で、肝心の「1361年に起こった南海地震」に話を戻しましょう。
 これは正平16年(南朝年号)に発生したことから、「正平南海地震」とも呼ばれています。以下はその呼び方で書きます。

 正平南海地震はマグニチュード8級の大地震で、紀伊半島から四国にかけて大きな被害をもたらしました。四国沖には5mを越す大津波が押し寄せたらしい物証も近年見つかっているようです。
 奈良県内の被害はというと、薬師寺・興福寺・法隆寺などで堂宇に被害があったという記録が残っているほか、高松塚古墳がある明日香村のカヅマヤマ古墳では地滑り跡も見つかっています。
 明日香村の震度は現代で言う「6弱」だったのではないかとの見方もあることから、とにかく相当の大地震であったことが窺えます。

 ということで、高松塚古墳の石材の亀裂はこんな地震によって発生したらしいです。
 これほどの地震なら大きな亀裂が入ってしまうのも仕方ないなと残念に思う一方、地震発生から650年ほど経った今でも崩れることなく耐え続けてきたその石材の一つ一つにハイタッチしたい気分で一杯です。それで崩れたらシャレになりませんが(笑)

 エントリを書き始めた当初は「正平南海地震はすごい」というテーマだったのですが、今は「それに持ちこたえた高松塚古墳がすごい」という気持ちでいっぱいです。
 お疲れ様、高松塚古墳の石材たち。


参考リンク
 ・南海地震に備える (製作: 高知大学理学部災害科学内「岡村土研」)
  ――四国を主眼に置いた過去の南海地震の記録など
 ・1361年正平南海地震 南国市で津波5・5M (03.10.6 / 高知新聞社)
  ――5m以上の津波が発生したらしいことと、興福寺金堂が被災したことが記載されている記事
 ・(!!PDF) 奈良県周辺の地震被害 (製作: 奈良県)

関連エントリ
 ・高松塚古墳解体のまとめ (07.04.10から随時更新中)
  ――石室解体に伴う高松塚古墳の(できるだけ)リアルタイム情報のまとめ
by Yue | 2007-06-07 | 勝手に奈良学 | trackback | comment(2) | top
日本と中国を繋げ続ける唐招提寺 [2007.06.02 - 勝手に奈良学]
 奈良ニュースをまとめ読みしていてふと目についた話題。
 唐招提寺の開山御廟(かいざんごびょう・鑑真の墓所)に立っている灯篭(とうろう)が主役です。
【奈良を学ぶ】唐招提寺・開山御廟 (asahi.com / 07.5.29)

 (略)
 4月12日、来日していた中国の温家宝首相が国会で演説した。相互信頼、平等互恵、交流強化をうたった演説を、温首相はこう締めくくった。

 「議員の諸先生方、揚州・大明寺の鑑真記念堂に一つの石灯籠があります。これは、1980年に日本の唐招提寺の森本孝順長老が自ら送り届け、自らともしたものです。この石灯籠は日本の唐招提寺にあるもう一つの石灯籠と一組になっています。この一組の灯籠は今なお消えることなく燃え続け、はるか遠くから互いに照り映え、中日両国人民の子々孫々にわたる友好の明るい将来を象徴しています」

 ということで、唐招提寺の開山御廟前にある灯篭と、中国の大明寺にある灯篭は、20年来の兄弟だそうです。

 大明寺は中国・揚州にある寺院。公式サイトURLから察するに、現地では「damingsi」と発音するようです。ダイミン……その後が分からん……(笑)。ダイミンシ?
 大明寺サイトは以下URLからご覧ください。もちろん全中国語ですが。
 http://www.damingsi.com/

 閑話休題。
 このdaimingsi、もとい大明寺は、日本に来る前の鑑真が住職を務めていた寺院です。
 その歴史は古く、日本で言う古墳時代に創建されたのだとか。
 まさかこの奈良ブログで中国のサイトを覗く事になるとは思いませんでしたので、ここまで来たら開き直って、公式サイトの中国語を引用させていただきます。
大明寺因初建于南朝刘宋孝武帝大明年间(457―464)而得名。1500余年来,寺名多有变化,如隋代称“栖灵寺”、“西寺”,唐末称“秤平”等。清代,因讳“大明”二字,一度沿称“栖灵寺”,乾隆三十年皇帝亲笔题书“敕题法净寺”。1980年,大明寺恢复原名。

 たぶん、日本語訳はこういう感じなんでしょう。
 「大明寺が初めて建てられたのは宋孝武帝(どこで切るのか分かりません)の大明年間の457〜464年の頃なんですよ。
 その後の1500年余りの間にお寺の名前は次々に変わっていき、「栖灵寺」や「西寺」など色々な呼ばれ方がされてまいりました。
 でも1980年、「大明寺」という名前に復活し、今に至ります。」

 中国語を理解してなくてもぼんやり想像がつくのがすごいですねぇ。漢字は偉大です。

 とにかくこの大明寺はとてつもなく古い歴史を持っている寺院なのです。
 日本で一番最初にできた本格寺院・飛鳥寺の創建は596年。大明寺はそれより140年ほど先輩なわけですね。今を基点に考えると140年前は1867年。明治維新の頃か。完全に日本史感覚の時代です。


 そんな2つの寺院が現在も灯篭によって繋がりを持ち続けている。
 1300年前から中国と深い関係にある唐招提寺だからこそ胸に沁みてくるものがある、素敵なお話でした。


 さてその唐招提寺では、ちょうど今日2日から10日まで、特別公開が行われています(参照-唐招提寺の国宝三尊、久々の再会 (07.05.30))。
 いらっしゃる皆さん、その時はぜひぜひ開山御廟に立っている灯篭にも会いにいってみてください。中国の大明寺に脳内トリップできるかもしれませんよ。


参考リンクまとめ
 ・唐招提寺 公式サイト
 ・大明寺(中国・揚州) 公式サイト(!!中国語)

関連エントリ
 ・東大寺の獅子にブラザーが! (06.12.11)
  ――唐招提寺・大明寺の灯篭タッグよりも更に古いと見られている、東大寺・ニンポーの獅子兄弟。鎌倉時代以来の兄弟らしい
by Yue | 2007-06-02 | 勝手に奈良学 | trackback | comment(0) | top
高松塚古墳解体のまとめ [2007.04.10 - 勝手に奈良学]

最終更新: 07.7.26(最新更新部分は文頭に「■」をつけています)


 先日から石室解体が行われて注目の的となっている高松塚古墳の情報を、無事の解体を願うありったけの想いを込めて、このエントリにて随時更新していきたいと思います。
 関係者の皆様方も、高松塚古墳石室も壁画も、みんなみんな頑張れ。



高松塚古墳とは

 奈良県明日香村にある古墳。
 1972年3月に行われた発掘調査で壁画が見つかり、日本初の壁画古墳の発見として大騒ぎに。
 壁画には四神(朱雀は盗掘により失われている)の他に、男子群像・女子群像、星宿図が描かれており、他国との交流があったことを物語っている。

 墳丘の直径は23m。築造時期は8世紀初頭と推測される。(大きさ・時期が類似しているものとして、同明日香村のマルコ山古墳がある)
 2005年2月には「円墳」であることが確認された。

 被葬者は特定されていないが、石上麻呂(いそのかみの-まろ=元明・元正天皇期の左大臣、物部氏系豪族、78歳での死去後に従一位を贈られる)が有力視されている。理由は以下箇条書き。
 ・円墳は豪族を埋葬する際に造られていた可能性が高い
 ・埋葬人骨が50才以上の男性とみられている(人骨は1972年に発見)
 ・石室内の壁画に描かれている男子群像の一人が、“一位”を表す深緑色の蓋(きぬがさ=儀式等に用いる傘)を持っている



石室解体の予定手順

 「天井石→側石」、「北側→南側」がキーワード。

 一番最初に北側の天井石を取り外し(07.4.5完了)、次はそれによって取り外し可能となった側石を取り外す。
 同じような手順をもって「天井石→側石」の流れで取り外しながら、徐々に南側へと作業を移していき、石室解体を完了させる予定。
 1週間に1枚の割合で取り外しが行われる予定となっているが、取り外された石材の状態によっては遅れる場合もあるらしい。(状態が悪ければ緊急手当てをしなければならないため)
 

■次の取り外し予定
 残る4枚の床石は、7月末の取り出し予定
   →8月後半に変更



高松塚古墳石室解体の流れ
(以下に表記する日付の大半は“報道公開された日”なので、作業日・発見日とはズレが生じている場合がある)

05.6 / 壁画保存のための石室解体を決定
 現状のままでは壁画の保存が難しいと判断し、石室解体をして壁画の修復に当たるという、過去に例を見ない決断を下す。
 この決定については賛否両論が飛び交い大騒ぎとなった。

---

06.10.27 / 墳墓から松の根の跡を発見
 「高松塚」と命名されるきっかけとなった江戸期の松の木の根跡を発見。
 命名理由が「高い塚の松」なのか「塚の高い松」なのか「松の高い塚」なのか「高の塚い松」なのかは不明。最後の候補だったらちょっと面白いが。

---

07.3.6 / 1300年ぶりに姿を表した天井石を公開
 天井石に新たな亀裂が見つかり、取り外しの際に崩壊してしまう恐れもあると関係者がてんやわんや。
 また、北端の天井石の大きさが予想と違い、石を持ち上げるための機材が使えないかもしれないという「予想外デス」な事態に。
 この北端の天井石は4月5日に取り外しが行われる、記念すべき“取り外し第1号”になる予定。

07.3.13 / 壁画修復作業を行う施設が完成
 防犯カメラ、有機溶剤排出管、二重壁、紫外線遮断の蛍光灯などが完備されている、ハイテク施設。
 高松塚古墳からは750mほど離れた場所にあり、壁画たちはここで10年近く療養することになる。

07.3.29 / 床石以外の石室を公開
 3月6日に天井石のみの公開が行われてから、更に1.6mを掘り下げ、天井石を加え、床石を除く側石と北・南壁を露出させた。
 側石は東西それぞれに3枚ずつ並べられており、高さ約113cm、幅76〜107cm、厚さ40〜51cmと判明。
 北壁は石が一枚ながら厚さが均等ではなく、35〜43cm。
 南壁の厚さは、これまた均等ではなく、45〜49cm。

07.4.5 / 石室の解体作業が始まる
 前例のない石室解体作業がいよいよ始まり、無事に北端の天井石の1枚が取り出された。
 この後、1週間に1枚の割合で取り外しが行われる予定。
 この日運び出された石は、本来ならばこの日のうちに施設に落ち着く予定だったが、予想以上にカビが付着していることが判明。急遽予定を変更し、修理室の手前にある搬入室にて数日間にわたってカビ除去作業を行うことが決まった。
 取り外された石があった場所にはシートをかぶせ、石室内の環境を保たせている。

07.4.7 / 応急カビ除去作業終了。「玄武」壁画取り外しの準備作業本格化
 5日に取り出され、搬入室にてカビ除去の応急処置が行われていた“取り出し第一号”の天井石が、無事に作業室へ移った。この後10年近くをここで過ごす予定。
 また、「玄武」が描かれた北壁を4月中旬に取り外す予定で、その準備の作業が本格化し始めた。

07.4.11 / 「玄武」の北壁全面が露出
 来週に取り外しが予定されているのを前に、表に「玄武」が描かれている北壁周辺の土を取り除き、石材を露出させた。
 石材の裏は黒カビでほぼ全面にわたって汚れており、研究者もビックリ。この古墳壁画を脅かしたカビの温床の一つではないかと推測されている。

07.4.17 / 「玄武」の北壁、取り外し完了
 11日に続き、取り外し2例目。
 壁画が描かれている石材としては初めての作業であったが、無事に終了した。
 カビが付着しているものの、状態は良好で、特に緑色が鮮やかに残っているとのこと。
 カメとヘビの顔が失われているが、これは発見当初からその状態だったらしい。

07.4.25 / 北から2番目の天井石、取り外し成功
 天文図が描かれた石材。石に大きなヒビが入っていて持ち上げの際の破損が危惧されており、関係者の方曰く「最も難しい解体」だった。
 作業は無事に終了、目立った損傷も無く、取り外しが完了した。
 この天井石が取り外されたことにより、有名な壁画「飛鳥美人(女子群像)」などが見えるようになった。

07.5.12 / 「飛鳥美人」壁画、無事取り外し成功
 有名な壁画「飛鳥美人」が描かれた西壁北端石の取り外しが行われた。持ち上げ中に不安定に揺れて場が凍りついた一瞬もあったが、破損無く無事に完了した。
 「飛鳥美人」の保護のため、石材表面には半透明・乳白色のレーヨン紙が二重に貼られており、取り外し作業を間近で見ていた報道陣の目からは壁画を確認することが困難だったらしい。
 翌日13日に行われたマスコミ公開時もレーヨン紙が貼られたままで、更に公開時間は5分という徹底ぶりだったらしい。
 「飛鳥美人」はこれから10年かけて修復されるという。

07.5.17 / 「女子群像」が描かれた東壁、取り外し成功
 壁画「女子群像」が描かれている東壁の取り外しが無事に完了した。
 既に取り外されている他の石材に比べてカビが少なかったことなどから、カビ除去作業はスムーズに進み、翌18日には作業室へ移された。この部屋で本格的な修理が行われる予定。
 ちなみにこの「女子群像」が描かれた石材は、12日に取り外された「飛鳥美人」の向かい側に位置していた。

07.5.18 / 取り外し順の変更を発表
 取り外し第9号に予定されていた南端天井石を、第7号へと繰り上げることが発表された。(現時点では第5号まで取り外し完了)
 この天井石は大きな亀裂が入っており、周囲の石材の取り外しで起こる微妙なバランスの変化などによって大きな負担がかかってしまう恐れがあるため。
 当初は「天井石1(亀裂のある天井石の横の天井石)→天井石1の東・西壁→天井石2(亀裂のある天井石)→天井石2の東・西壁」の予定だったが、変更後は「天井石1→天井石2→天井石1の東・西壁→天井石2の東・西壁」となる。

07.5.23 / 次の取り外し予定の天井石に大きな亀裂発見、取り外し時に石材破損の恐れも
 28日に取り外しが予定されている取り外し第6号の天井石で、新たな大亀裂が見つかった。
 これ以外に以前から見つかっていた大亀裂も存在しており、どちらも亀裂が深く、取り外し時に石材の破損が起こり兼ねない状態に。
 これに伴い、取り外しに使う機材も変更。10本の脚でがっしりと石材を包み込むように持ち上げる、「オクトパス」(=タコ)と名づけられた新兵器が登場する予定。

07.5.28 / 亀裂にめげることなく、取り外し第6号の天井石が無事に取り外し完了
 東アジア現存最古の「天文図」が描かれている南から2番目の天井石の取り外しが、新機材「オクトパス」によって無事に完了した。
 30〜50cmもの大亀裂が5本以上見つかっているという厳しい状態ではあったが、漆喰の剥落もなく、石材の破損もなかった。

07.5.30 / 最後の天井石、取り外し完了
 取り外し第7号となる南端の天井石の取り外し作業が無事に終わった。
 大きな亀裂が南北に走っていたが、石材の破損等はなかった。
 この石材には壁画は描かれていない。

07.6.7 / 四神「青龍」が描かれた東壁、取り外し完了
 四神のうち「青龍」が描かれている東壁が、無事に取り外された。取り外し第8号。
 石材は底の部分が脆くなっており、崩れる可能性もあったが、何事もなく作業は終了した。
 5月12日の「飛鳥美人」取り外しの際と同様に「青龍」にも薄手のレーヨン紙を貼って保護した。

07.6.14 / 四神「白虎」が描かれた西壁の取り外しが成功
 四神「白虎」が描かれている西壁中央の石材の取り外しが無事に終わった。取り外し第9号となる。
 またこの日の調査で、15日に取り外し予定の南壁に大きな亀裂があることが分かった。この石材はもともと盗掘口の穴が開いており、取り外しの際の損傷が懸念されている。
 他の壁画と同じく、「白虎」も特殊レーヨン紙で保護されており、はがされるのは19日になるとのこと。

 同日、「男子群像」が描かれている南端の東西壁の取り外しをそれぞれ、22日、26日にに行うとの発表があった。
 この2つの取り外し完了後は、床石の4枚だけが残ることとなる。(この4枚も7月中に取り外し予定)

07.6.15 / 盗掘口のある南壁、取り外し完了
 前日の「白虎」壁画の石材に続き、南壁の取り外しが無事に完了した。
 盗掘口や亀裂などから損傷も心配されたが、大きな異常もなく修理施設へと搬入された。

07.6.21 / 「“幻の朱雀”の顔料!?……いやいや、落ち着け自分。」
 21日、南壁の下に敷かれている床石に、赤い顔料が無造作についていることが分かった。
 顔料は水銀朱で、当時壁画を描いた画工が床石の3箇所にポタポタとこぼしてしまったらしい。
 発見当初、幻の壁画・朱雀(高松塚古墳の朱雀は盗掘により失われている)の顔料ではないかということで現場は色めき立ったが、見つかった場所などを考慮して冷静に考えると、朱雀の顔料という可能性は低いという。

07.6.23 / 取り外し11号となる「男子群像」が描かれた東壁、取り外し無事終了
 22日、「男子群像」壁画が描かれた石材のうち、東壁の取り外しが無事に終了した。
 水分を多く含んでいたため作業には慎重を要したが、破損もなく運搬されていったという。
 残るは26日取り外し予定の西壁「男子群像」で、この作業の後はしばらく間が空くことになる。

07.6.26 / 取り外し12号の西壁「男子群像」、取り外し完了。作業一段落へ
 26日、「男子群像」壁画が描かれた西壁の取り外し作業が無事に終了した。
 これにより、国宝に指定されている石材の取り外し作業は全て完了したことになる。
 残す4枚の床石の取り外しは未定。

 4月から始まったこれまでの作業は困難を要し、変更を余儀なくされたことも多かったが、石材の損傷等は全くなかった。
 世界的にも類を見ないこの古墳の石室解体作業は、関係者の方々の尽力で無事に一段落を迎えた。
by Yue | 2007-04-10 | 勝手に奈良学 | trackback | comment(0) | top
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